グンゼのデイトナコブラを久しぶりに手に入れました。高校生くらいの頃、新製品で買って作ったキットです。ヤフオクで購入しました。


ボディ素材はアルミニウム合金。最初の個体であるCSX2287は、シェルビー・アメリカンのファクトリーが市販コブラの量産で手狭となっていたことから、同じロサンゼルス市内にあったディーン・ムーンのファクトリーとその生産設備を借りて製作された。そしてもともと量産する必要もなかったことから、2台目以降はこの手のアルミボディの製作に長けていたイタリアのカロッツェリア、「グランスポルト」に外注に出されることとなった。


スーパフォーマンス製『シェルビー・デイトナ・クーペ』を取材しました。 ↓以下はスーパフォーマンスの公式HPからの転載です。

シェルビー・コブラ・デイトナクーペは1965年の半ばまでに合計6台が生産され、完成した個体から実戦へと投入されていった。空力的に洗練された新しいボディを得たシェルビー・コブラは、依然として強力なライバルであり同じくさらに洗練されたボディを得ていたフェラーリGTOを相手に大健闘を見せた。そしてついに1965年度の世界耐久選手権においてGTクラス・チャンピオンの座に輝いたのである。アメリカンメイドのスポーツカーが世界一に。多くのアメリカ人レースカービルダーの夢が現実のものとなった瞬間だった。


ちなみにコブラ・デイトナ・クーペには大きく分けてシェルビー・アメリカン自身の手で製作されたプロトタイプと、それをベースにイタリアの「グランスポルト」で製作された二号車以下六号車までの2タイプが存在している。今回写真で紹介している♯12はグランスポルト製二号車のCSX2300、♯26は同じく三号車のCSX2601である。

グリーンライト 1/18 1965 シェルビー デイトナ コブラ クーペ CSX 2601

この本は、キャロル シェルビーの伝説的なコブラのデイトナ クーペ バージョンの魅力的な歴史を、製造された 6 台の車のうちの 1 台に特に焦点を当てて説明しています。 ルックスとパフォーマンスの両方において野心的な目的を持った素晴らしいデイトナ クーペは、FIA 世界スポーツカー選手権で優勝するために作られ、1965 年に正式に優勝し、フェラーリを大排気量クラスで破りました。 この本で詳しく取り上げた特定の車、CSX2300 は、5 回のチャンピオンシップ ラウンド (1964 年に 1 回、1965 年に 4 回) に参加し、シェルビー アメリカンのユニークなチームの成功に貢献しました。 まさに「偉大な車」の 1 つであるシェルビー コブラ デイトナ クーペは、この絶賛された本シリーズに加える価値のあるものです。

1963年の秋から開発に入った新しいコブラは、GMのデザイン総本山でもあったアート&カラー・ディビジョンを辞し、シェルビー・アメリカンに雇用されたばかりの若きデザイナー、ピート・ブロックの手でボディ形状が整えられることとなった。

MZP144R・京商 ASC MR-03N-RM シェルビーコブラ デイトナクーペ レッド

こうした経緯から誕生したしたのが、英国製ACエースのロードスターボディにフォード製XHP-260(4.3L)V8エンジンを搭載したシェルビー・コブラであった。
その後、モータースポーツへの参加を前提にさらなるパフォーマンスを追求した同車は、1962年にエンジンをチャレンジャー289(4.7L)スペシャルV8に換装してFIAのGTホモロゲーションを取得し、1964年にはサンダーバード用に開発したエンジンを軽量・高性能化した427(7L)V8エンジンを搭載した。

軽量・コンパクトなボディにパワフルなV8エンジンの組み合わせによるパフォーマンスは圧倒的で、シェルビー・コブラはアメリカ国内で活躍した。だが、ヨーロッパでのレースに参戦するにあたり、パフォーマンス的にはライバルのフェラーリやアストン・マーティンに勝るとも劣らないものの、オープンボディのため空力では大きなハンデを抱えていた。とくにル・マン24時間レースでは全長6km (当時)にも及ぶミュルサンヌ・ストレートでライバルとの差が開いた。

シェルビー・デイトナ・コブラ・クーペのエンジンサウンドです! アメ車特有のV8 SOHCの排気音もイイですね.

Rinsey Mills は、1960 年代に美術学校に通っていたときに初めて AC を購入しました。 それは行き来しましたが、決して忘れられず、数年後、荒廃した後、彼はそれを再び手に入れました。 その後、テムズ ディットンの AC 工場を訪れたときの偶然の会話から、彼はこの使い古された、くすんだスポーツカーが 1935 年のモンテカルロ ラリーでほぼ優勝したことを知りました。 有名なマークの専門家になります。 この情熱により、彼は後年キャロル・シェルビーと知り合い、公式の伝記作家になりました。 彼の主な著作であるキャロル シェルビー: 認定された伝記 (ヘインズ、2012 年) は、シェルビーの死のわずか数週間前に出版されました。 Rinsey は、Original AC Ace & Cobra (Bay View、1990 年)、Essential AC Cobra (Bay View、1997 年)、Great Cars: AC Cobra (Haynes、2003 年)、AC Sports Cars in Detail など、AC 関連の書籍を執筆しています。 : 6 気筒モデル 1933 ~ 63 年 (Herridge & Sons、2007 年)。

この問題はシェルビー・アメリカンにとって、より戦闘力の高い「新しいシェルビー・コブラ」を送り出す上で極めて大きな動機となった。そしてその結果生み出されたのが「シェルビー・コブラ・デイトナ・クーペ」だった。


ウォン警部のブログ記事「シェルビーコブラ・デイトナクーペCSX9000」です。

ラインオフしたシェルビー・デイトナ・クーペはプロトタイプを含めて全部で6台。シャシー番号はCSX2286、CSX2287、CSX2299、CSX2300、CSX2601、CSX2602となる。そのすべてが現存し、コレクターや各地の博物館の手で大切に保管されている。

シェルビーコブラ・デイトナクーペCSX9000. ウォン警部のブログ記事「シェルビーコブラ・デイトナクーペCSX9000」です。

もちろんシェルビー・アメリカン側も手をこまねいて見ていたわけではなかった。タイトターンが多いレースコースでは問題とならなかったこの弱点は、テストの時点である程度予測されており、1963年度のル・マン24時間レースではハードトップが装着することで切り抜ける策が採られた。

ブログ:シェルビー コブラ デイトナ クーペ用スターターモーター

だが、今回アメフェスに展示された車両はいずれのシャシー番号でもない。展示車両の細部をよく検分すると、後年スーパーパフォーマンス社が製造したレプリカではないようだが、1960年代にレースで活躍した車両とは細部の意匠が異なる。WWRJのスタッフに尋ねると「本物」との答えが返ってきた。これは一体どう言うことだろうか?

【検証】コブラ対決!デイトナクーペvsコブラ427!【GTSport】

後日、資料を漁ったことで謎は解けた。この車両のシャシー番号はおそらくはCSX2469だろう。その出自は1990年代前半にオリジナルのコブラ・ロードスターをベースにシェルビー・デイトナ・クーペへと改造された車両のようだ。ただし、製造はキャロル・シェルビーの監修の元、彼のパートナーであり、コブラの専門家でもあるマイク・マクラスキーが手掛けている。どうやらシェルビーが自分用に作ったマシンらしい。

GT7 シェルビー コブラ デイトナクーペ 1964 ラグナ・セカ PS4

モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。第14回目はトミタオートから購入したシェルビー「デイトナクーペ」を振り返ってもらいました。

デイトナレースで宿敵フェラーリに勝つために作られたコブラクーペ

当時のレーシングカーは、公道モデルに驚くほど近かった。自走でサーキットへ向かい、そのままレースを戦ったマシンも珍しくなかった。21世紀に再現されたデイトナ・コブラはモダナイズされている。しかし、現代の水準では大きな忍耐が必要だ。

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今回ご紹介するのは「デイトナコブラ」というクルマである。正式名称は(シェルビー デイトナ クーペ)と呼ぶようであるが、ロードスターの「コブラ」をベースにクラスのスポーツカーに仕立て上げたもの。年のマニュファクチャラーズのチャンピオンを獲得したマシンでもある。

デイトナ コブラクーペ(CSX2300) (レジン・メタルキット)

じつは2022年夏にこのクルマはアメリカのオートオークションに出品されており、出品目録にあった写真と展示車を見比べると、車体に入ったゼッケン番号以外はまったく同一の車両であった。おそらくは展示車両はこのオークションで落札されたか、落札後にオーナーから購入した上で日本に輸入したのだろう。

ラジコン First Mini-Z シェルビー コブラ デイトナ クーペ

まあ、スポーツカーと言ってもほぼレーシングカーという方が正しい。当時同じカテゴリーでレースをしていたのがフェラーリ「250GTO」。これを打ち破ってのチャンピオンなのだから価値がある。もともとロードスターのACコブラ(ハードトップ付き)でル・マンにエントリーしたシェルビーは、長い直線のトップスピードがフェラーリより劣ると判断し、当時シェルビーに在籍していたピート・ブロックに空力性能に優れたクーペボディのデザインを指示。結果出来上がったのがこのクルマだ。

シェルビー デイトナ クーペ 入庫いたします。 シェルビー デイトナ クーペ ..

このアイディアは見事に結実し1964年のル・マンでは宿敵フェラーリ250GTOを打ち破り、総合4位、GTクラスのウィナーとなった。そんな貴重なマシンがチャンピオンを取った翌年の1966年に日本へとやって来たのである。第3回日本グランプリに突如として姿を現したデイトナクーペは、酒井 正(敬称略、以下同)のドライブで雨の予選こそ最下位に沈んだものの、スタートでその大排気量のパワーを活かし、ストレートで一気にトップに躍り出た。その後2位を走るもまだまだハイパワーマシンを御しきれなかったのか、レースではエンジンを壊してリタイアしたが、そのスピードの片鱗はたしかに見せつけた。

1964年型 シェルビー・デイトナ クーペ シークレットウェポン

本来、シェルビー・デイトナが搭載していたエンジンはのV8だった。だが、筆者が試乗したデイトナ・コブラに載っていたのは、GMのLS3ユニット。エアコンとパワーウインドウも装備されていた。

設計図は一緒!シェルビー コブラ デイトナ クーペ 50台限定発売!

当時のグランプリの公式プログラムがある。しかしエントリーリストに酒井 正の名も、またデイトナコブラの名もない。レース出場車として紹介されていたのは三保敬太郎のエントリーしたACコブラロードスターの写真が掲載されているが、これは出走していない。酒井はグランプリのエントリー締め切り1カ月前というタイミングで出場を表明したそうで、プログラムの作成には間に合わなかったということであろう。

1/24 Gunze – Cobra Daytona Coupe | お手付きモデルズ

翌1965年はワークスカーとしてガーズマン・ブルーのシェルビーアメリカンカラーに塗られ、2月のデイトナで総合6位入賞。3月のセブリングでも13位完走を果たした。ル・マンは欠席し、1965年はニュルブルクリンクに出場している(この時は12位)。

[GT6]コブラ デイトナクーペ 15th Anniv 64[B-Spec]

まだ制作中で色も塗られていない工場内のモデル。このクーペの写真を見て、あれ? と思った人はさすが。このマシンはシェルビーの手によってコンプリートされた唯一のディトナコブラで、他のモデルはすべてイタリアのカロッツェリア・グランドスポーツの作品である

Cobra Daytona Coupe, Body Buck | God Dwells in Small Things

コブラの成功を経て、自身が設計したクルマでの1959年のル・マン優勝に合った一台を求めたキャロル・シェルビー。289コブラのシャシーを使った新しいボディーワークはクルマのスピードアップに繋がり、最高速度466km/hを実現させた。その年、シェルビーはフェラーリ250GTOでル・マンのGTクラスに出場し、優勝。1964年のル・マンで427立方インチのNASCARスタイルの巨大なV8を載せるため改修されたが、輸送トラックがレースに向かう途中で事故を起こし結局レースには間に合わなかった。コンティニュエーション・デイトナの新ラインナップではオリジナルに忠実に、シェルビーアメリカンシリアルナンバーまで再現されている。427デイトナは一度もレースに出場することはなかったが、コンティニュエーションモデルは私たちにどんなレースになったかを想像させてくれるだろう。