■PHOTO&TEXT:IZUMI HIROMOTOアメ車マガジン 2018年 8月号掲載


当時のレーシングカーは、公道モデルに驚くほど近かった。自走でサーキットへ向かい、そのままレースを戦ったマシンも珍しくなかった。21世紀に再現されたデイトナ・コブラはモダナイズされている。しかし、現代の水準では大きな忍耐が必要だ。


オートワールド 1967 シェルビー GT350 グレー/ホワイトストライプ 50th Anniv. 1:18


彼はレーサーとしての才能は直ちにあらわし、アメリカ各地で連戦連勝を続け、さらにルマンではアストン・マーチン・チームに加わり、さらに勝利を増やすこととなります。健康を理由に引退を余儀なくされた後は、アメリカ製のV-8エンジンを英国車,(AC Car)に取り付けるという奇想天外なアイディアを実行することとなります。こうしてできあがった「シェルビー・コブラ」は1960年代のスポーツカーレースを制覇し、ワールド、マニュファクチャラー・チャンピオンに輝きます。1966年、67年にはシェルビーGT350SでTrans-Amのチャンピオンに、1966年にはフォードGT-40を世界スポーツカー・チャンピオンシップへと導きます。

シェルビー・コブラ・デイトナクーペは1965年の半ばまでに合計6台が生産され、完成した個体から実戦へと投入されていった。空力的に洗練された新しいボディを得たシェルビー・コブラは、依然として強力なライバルであり同じくさらに洗練されたボディを得ていたフェラーリGTOを相手に大健闘を見せた。そしてついに1965年度の世界耐久選手権においてGTクラス・チャンピオンの座に輝いたのである。アメリカンメイドのスポーツカーが世界一に。多くのアメリカ人レースカービルダーの夢が現実のものとなった瞬間だった。

グリーンライト 1967 シェルビー GT500 ホワイト/ブルーストライプ 1:18

ボディ素材はアルミニウム合金。最初の個体であるCSX2287は、シェルビー・アメリカンのファクトリーが市販コブラの量産で手狭となっていたことから、同じロサンゼルス市内にあったディーン・ムーンのファクトリーとその生産設備を借りて製作された。そしてもともと量産する必要もなかったことから、2台目以降はこの手のアルミボディの製作に長けていたイタリアのカロッツェリア、「グランスポルト」に外注に出されることとなった。


ちなみにコブラ・デイトナ・クーペには大きく分けてシェルビー・アメリカン自身の手で製作されたプロトタイプと、それをベースにイタリアの「グランスポルト」で製作された二号車以下六号車までの2タイプが存在している。今回写真で紹介している♯12はグランスポルト製二号車のCSX2300、♯26は同じく三号車のCSX2601である。

ピーターブルック氏のデザインによるシェルビーデイトナは、コブラのシャーシを使いエアロダイナミックなボディにより、


全米でロード・レースを勝ちまくっていた頃のシェルー・ビーコブラ・ロードスターはヨーロッパの長いコースには、エアロ・ダイナミック的に不利であるとシェルビーは考えました。そこでピート・ブロックに依頼、イタリア、イギリス、ドイツのレースカーに対抗する計画が出されました。
ケン・マイルス他2名に依頼、彼自身も加わって開発した、デイトナ・クーペは、セブリング、ルマン、グッド・ウッドで行われたツーリスト・トロフィーで、強敵、フェラーリをついに破ります。6台のクーペはその後も各地で活躍、最も価値あるシェルビー・カーとして高く評価されています。

〇1963年。恐らくディトナ2000km直前頃のショットと思われる。まだ制作中で色も塗られていない。このクーペの写真を見て、あれ?と思った人はさすが。このマシンはシェルビーの手によってコンプリートされた唯一のディトナコブラで、他のモデルはすべてイタリアのカロッツェリア・グランドスポーツの作品である。シャシーナンバーCSX2287。初期のレースではこのクルマだけダックテールが付いていない。

「デイトナ コブラ」の中古車 | 中古車なら【カーセンサーnet】

モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。第14回目はトミタオートから購入したシェルビー「デイトナクーペ」を振り返ってもらいました。

今回ご紹介するのは「デイトナコブラ」というクルマである。正式名称は(シェルビー デイトナ クーペ)と呼ぶようであるが、ロードスターの「コブラ」をベースにクラスのスポーツカーに仕立て上げたもの。年のマニュファクチャラーズのチャンピオンを獲得したマシンでもある。


ラジコン First Mini-Z シェルビー コブラ デイトナ クーペ

まあ、スポーツカーと言ってもほぼレーシングカーという方が正しい。当時同じカテゴリーでレースをしていたのがフェラーリ「250GTO」。これを打ち破ってのチャンピオンなのだから価値がある。もともとロードスターのACコブラ(ハードトップ付き)でル・マンにエントリーしたシェルビーは、長い直線のトップスピードがフェラーリより劣ると判断し、当時シェルビーに在籍していたピート・ブロックに空力性能に優れたクーペボディのデザインを指示。結果出来上がったのがこのクルマだ。

1/24 グンゼ改造 シェルビーコブラデイトナクーペ 製作開始

1963年の秋から開発に入った新しいコブラは、GMのデザイン総本山でもあったアート&カラー・ディビジョンを辞し、シェルビー・アメリカンに雇用されたばかりの若きデザイナー、ピート・ブロックの手でボディ形状が整えられることとなった。

グンゼのデイトナコブラを久しぶりに手に入れました。高校生くらいの頃、新製品で買って作ったキットです。ヤフオクで購入しました。

このアイディアは見事に結実し1964年のル・マンでは宿敵フェラーリ250GTOを打ち破り、総合4位、GTクラスのウィナーとなった。そんな貴重なマシンがチャンピオンを取った翌年の1966年に日本へとやって来たのである。第3回日本グランプリに突如として姿を現したデイトナクーペは、酒井 正(敬称略、以下同)のドライブで雨の予選こそ最下位に沈んだものの、スタートでその大排気量のパワーを活かし、ストレートで一気にトップに躍り出た。その後2位を走るもまだまだハイパワーマシンを御しきれなかったのか、レースではエンジンを壊してリタイアしたが、そのスピードの片鱗はたしかに見せつけた。

シェルビー・デイトナ・コブラ・クーペのエンジンサウンドです! アメ車特有のV8 SOHCの排気音もイイですね.

当時のグランプリの公式プログラムがある。しかしエントリーリストに酒井 正の名も、またデイトナコブラの名もない。レース出場車として紹介されていたのは三保敬太郎のエントリーしたACコブラロードスターの写真が掲載されているが、これは出走していない。酒井はグランプリのエントリー締め切り1カ月前というタイミングで出場を表明したそうで、プログラムの作成には間に合わなかったということであろう。

デイトナ コブラクーペ(CSX2602) (レジン・メタルキット)

今回のクルマは、シェルビー・インターナショナル社の正式な認可を得ている。製造は南アフリカに拠点を置くハイテク・オートモビル社。英国ではル・マン・クーペス(LMC)社が販売を担う。過去のレプリカとは混同するべきではないだろう。

1965 シェルビー コブラ デイトナ クーペ ブルー #98 1:18

こうした経緯から誕生したしたのが、英国製ACエースのロードスターボディにフォード製XHP-260(4.3L)V8エンジンを搭載したシェルビー・コブラであった。
その後、モータースポーツへの参加を前提にさらなるパフォーマンスを追求した同車は、1962年にエンジンをチャレンジャー289(4.7L)スペシャルV8に換装してFIAのGTホモロゲーションを取得し、1964年にはサンダーバード用に開発したエンジンを軽量・高性能化した427(7L)V8エンジンを搭載した。

北米では シェルビーコブラなどを復刻盤として 新車で製造販売されています。 ..

軽量・コンパクトなボディにパワフルなV8エンジンの組み合わせによるパフォーマンスは圧倒的で、シェルビー・コブラはアメリカ国内で活躍した。だが、ヨーロッパでのレースに参戦するにあたり、パフォーマンス的にはライバルのフェラーリやアストン・マーティンに勝るとも劣らないものの、オープンボディのため空力では大きなハンデを抱えていた。とくにル・マン24時間レースでは全長6km (当時)にも及ぶミュルサンヌ・ストレートでライバルとの差が開いた。

1/24 グンゼ改造 シェルビーコブラデイトナクーペ 完成!

この問題はシェルビー・アメリカンにとって、より戦闘力の高い「新しいシェルビー・コブラ」を送り出す上で極めて大きな動機となった。そしてその結果生み出されたのが「シェルビー・コブラ・デイトナ・クーペ」だった。

クルマお宝話(18) デイトナ・コブラ · 1161_2 · 1162_2 · 1163_3 · 1164_2 · 1165_2

シェルビー・アメリカンではハードトップを装着するなどの対応を採ってはいたが充分ではなく、スポーツカー世界選手権への参戦を前提として、1964年に同社はピート・ブロックがデザインを手掛けたコブラのクーペバージョンを開発する。シェルビー・デイトナ ・クーペの誕生であった。

設計図は一緒!シェルビー コブラ デイトナ クーペ 50台限定発売!

様々な断片から自動車史の広大な世界を菅見するこのコーナー。今回はフォードGT40とフェラーリによる頂上決戦のかたわらで、GTクラスにも君臨していたフェラーリ250GTOを打ち破るために、キャロル・シェルビーがピート・ブロックに指令して生まれたデイトナ・クーペについて語りたい。

ウォン警部のブログ記事「シェルビーコブラ・デイトナクーペCSX9000」です。

翌1965年はワークスカーとしてガーズマン・ブルーのシェルビーアメリカンカラーに塗られ、2月のデイトナで総合6位入賞。3月のセブリングでも13位完走を果たした。ル・マンは欠席し、1965年はニュルブルクリンクに出場している(この時は12位)。

伝説的マシンが527psで復刻 シェルビー・デイトナ・コブラへ試乗 エンジンはGMのLS3 | 車の話

しかしこの策も空しく、その最高速度はシェルビー・コブラに先駆けて空力的に洗練されたボディを持つエボリューションモデルを投入していたアストンマーチンやフェラーリに対して、ユノディエールにおけるで実測で20mphH以上も劣っていたのである。

ブログ:シェルビー コブラ デイトナ クーペ用スターターモーター

ラインオフしたシェルビー・デイトナ・クーペはプロトタイプを含めて全部で6台。シャシー番号はCSX2286、CSX2287、CSX2299、CSX2300、CSX2601、CSX2602となる。そのすべてが現存し、コレクターや各地の博物館の手で大切に保管されている。

京商 ミニッツ オートスケール シェルビー コブラ デイトナ クーぺ レッド. 17,000円.

正式名称”Cobra Daytona Coupe”は日本ではデイトナ・コブラとして60年代の日本グランプリを中心としたレース・シーンでは親しまれた存在でした。こちらの画像でGo!